- コンカフェは、どこから来たか
- なぜ人はコンカフェに通うのか(最終回)いまここ
前回、コンカフェの歴史を「売り物の重心が"場所"から"特定の人との関係"へ移った25年」として追った。そして、その移動は日本社会が共同体を失っていく過程と重なっていた。残った問いはこうだ。人はなぜ、店に足を運んでキャストを指名し、金を払うのか。そして、会えないときでさえ、なぜ関係を保とうとするのか。
この回では、その答えを印象論ではなく演繹で出す。方法はこうだ。コンカフェという特殊な現象を直接分析するのではなく、「人間はどうやって集団を作り、承認を得て、それをどう失ってきたか」という普遍的な研究から一般法則を取り出し、それをコンカフェに当てはめる。遠回りに見えるが、このほうが確実だ。個別の業態を眺めているだけでは、なぜ25年も続いて拡大するのかは見えてこない。人類が数万年かけて作ってきた仕組みの、どこが壊れて、コンカフェが何を肩代わりしているのか——そこまで降りて初めて解が出る。
先に結論を置く。コンカフェは、人類が進化の過程で獲得した共同体の機能を、市場で部分的に再建する装置だ。特殊な色恋商法ではなく、普遍的な喪失への一般的な応答である。以下、社会学・人類学の古典を一つずつ当てて、この結論を組み立てる。
法則1 150人の共同体で得る承認
人類学者ロビン・ダンバーは、霊長類の脳の大きさと群れのサイズの相関から、人間が安定して維持できる関係の数はおよそ150人だと論じた。いわゆるダンバー数だ。狩猟採集の時代、人はこの規模の集団で暮らしていた。顔と名前が一致し、誰が何をしたかを全員が知っている。そこでは、承認も居場所も所属も、集団の中で自然に供給された。わざわざ買う必要のないものだった。
ここから一般法則を取り出す。人間の承認欲求は、150人規模の顔の見える共同体を前提に設計されている。この前提が満たされる限り、承認は無料でめぐってくる。問題は、前提が壊れたときに何が起きるかだ。
コンカフェに当てはめる。現代の都市生活は、この150人の共同体をほぼ完全に解体した。数百万人が住む街で、隣人の名前を知らずに暮らす。承認を配ってくれる顔見知りの集団が、どこにもない。進化が想定していた承認の供給源が枯れたまま、承認への欲求だけが残っている。コンカフェが売っているのは、まずこの枯れた供給を外から補う手段だ。「おかえりなさい」「また来てくれたんですね」——これは、150人の共同体が無料で配っていた言葉を、単価に乗せて売り直したものにほかならない。
法則2 共同体から契約社会への置き換え
19世紀末、社会学者フェルディナント・テンニースは、人間の結びつきを2種類に分けた。ゲマインシャフト(共同社会)——血縁や地縁で結ばれ、成員が互いを目的として大切にする有機的な集団。そしてゲゼルシャフト(利益社会)——契約と打算で結ばれ、互いを手段として使う機械的な集団だ。村はゲマインシャフト、会社や市場はゲゼルシャフトに近い。テンニースは、近代化とは前者から後者への移行だと論じた。
一般法則。近代社会は、居場所を無料で供給していたゲマインシャフトを解体し、その跡地にゲゼルシャフト(市場)を敷いた。市場は効率的だが、成員を手段としてしか扱わない。契約が切れれば関係も切れる。市場の中には、「あなたがいるだけで価値がある」と言ってくれる場所が、原理的に存在しない。
コンカフェに当てはめる。前回見たとおり、コンカフェは繁華街の商売、つまりゲゼルシャフトの真ん中で営まれている。だが売っているものは、ゲマインシャフトの機能——居場所、名前を覚えてもらうこと、来れば迎えてもらえること——だ。利益社会の内側に、共同社会を商品として再建している。これはねじれた構造に見えて、実は必然だ。共同社会が壊れて需要だけが宙に浮いた以上、それを供給できるのは、いまや市場しかない。買い戻す以外に、手に入れる経路がなくなっている。
法則3 家でも職場でもない「第三の場所」
社会学者レイ・オルデンバーグは、1980年代に「サードプレイス(第三の場所)」という概念を提示した。第一の場所である家庭、第二の場所である職場のどちらでもない、気楽に立ち寄れる居場所のことだ。かつてのカフェ、パブ、床屋、銭湯。そこでは肩書きを外して、ただの一人の人間として過ごせる。オルデンバーグは、健全な社会にはこの第三の場所が要ると論じ、近代の都市開発がそれを消してきたと指摘した。
一般法則。人間は、役割から降りて素でいられる第三の居場所を必要とする。そして近代は、効率と地価の名のもとに、その場所を潰してきた。
コンカフェに当てはめる。家に居場所がなく、職場は評価の場でしかない人にとって、第三の場所の不在は切実だ。コンカフェは、この空白に商品として入り込んだ。入店料と席料は、消えたサードプレイスへの入場券だ。面白いのは、コンカフェが「設定」を持つことで、むしろ素になれる点にある。常連やオタクという役を演じる約束事があるからこそ、客は職場や家庭で背負っている本当の肩書きを、いったん下ろせる。有料化されたサードプレイスは、無料だった頃のそれより、入りやすくなっている面すらある。
法則4 一方向の親密さ(パラソーシャル)
会いに行く動機の核にあるのは、キャストとの親密さだ。だが、その親密さの正体には、古い研究がある。1956年、社会学者のホートンとウォールが「パラソーシャル関係」という概念を提唱した。論文の副題は「遠隔地における親密さ(Intimacy at a Distance)」。テレビの中の人物に対して、視聴者が一方的に抱く友情や親密さのことだ。相手はこちらを認識していないのに、こちらは相手を知っていると感じる。この片思いの構造は、テレビの登場と同時に生まれた。
一般法則。人間は、相手との関係が一方向に傾いていても、親密さを十分に感じられる。
コンカフェに当てはめる。カウンター越しに交わす会話は、双方向に見えて、構造はパラソーシャルに近い。客が抱く親密さの深さと、一対多で接客するキャストの現実の間には、開きがある。それでも満たされるのは、この一方向でも働く性質があるからだ。だからこそ、会いに行くのが本流でありながら、会えないときにも関係が切れない。配信や遠隔ドリンクは、この性質を会えない局面に延ばしたものにすぎない。テレビと違って、投げた言葉に相手が名前を呼んで応えるぶん、糸は少し太くなる。前回、コロナで遠隔の通路が開いたと書いた。あれは新しい欲望ではなく、70年前から知られていた性質が、対面の外にも延長されただけだ。親密さの本体は、あくまで店で会う体験のほうにある。
ここで、よく聞く問いにも答えが出る。「AIがキャストを代替するのでは?」——しにくい。パラソーシャル関係が価値を持つのは、向こうに実在の人間がいるという前提があるからだ。パチンコが退屈な物理現象でなくなるのは、リアルマネーが賭かっているからで、それと同じ構造がここにある。相手がAIだと分かった瞬間、賭け金が消え、親密さは記号に戻る。会って目を合わせる体験が本流であるほど、この「実在の人間」という前提は重い。もっとも、これは現時点の人間の感覚に依存した話で、将来も同じ保証はない。
法則5 絆を作るための贈り物
人類学者マルセル・モースは、1920年代の『贈与論』で、未開社会の贈与を分析した。そこでは贈り物は無償の善意ではない。贈与には「受け取る義務」と「返礼する義務」が埋め込まれていて、この与えて・受け取って・返すの循環が、集団の絆そのものを編み上げていた。贈り合う相手とは、切れない関係になる。モースは、市場交換が普及する前、社会は贈与の網で成り立っていたと論じた。
一般法則。贈与は経済行為である前に、関係を作る儀礼だ。人は、絆を結びたい相手に贈る。
コンカフェに当てはめる。店で指名し、キャストにドリンクを奢る。差し入れを渡す。会えないときは遠隔で送ることもある。どれも価格表のある「購入」の形をしているが、行動の本質は贈与だ。客はドリンクを飲みたいのではない。贈ることで、相手との関係に自分を編み込みたい。そして贈与である以上、返礼を期待する——ここでの返礼は、金銭ではなく「認知」だ。名前を呼ばれること、覚えていてもらうこと、指名の常連として扱われること。市場化された贈与において、返ってくるのは商品ではなく、承認という古い通貨だ。モースが記述した贈与の循環が、価格表の下で、ほとんど原型のまま動いている。
法則6 売り物としての感情労働
社会学者アーリー・ホックシールドは、1980年代に客室乗務員の研究から「感情労働」という概念を作った。笑顔を絶やさず、相手を心地よくさせる感情の演出そのものが、賃金の対象になる労働のことだ。ホックシールドは、感情労働が常態化すると、自分の本当の感情と演じる感情の区別がつかなくなり、消耗すると指摘した。
一般法則。親密さや好意は、演出して提供する労働として商品化できる。ただしその労働は、演者の感情を燃料にするため、燃え尽きやすい。
コンカフェに当てはめる。キャストが売っているのは、飲み物を運ぶ物理労働ではなく、親密さを演出する感情労働だ。ここまでの法則で見たすべて——承認を配り、居場所を演じ、パラソーシャルな親密さを成立させ、贈与に返礼する——は、キャスト側から見れば、全部が感情労働として供給されている。コンカフェは、感情労働のほぼ純粋な形態だ。そして、前回の連載でも触れなかったが、これはキャストの離職率が高い構造の説明にもなる。売上やランキングという市場の「正しさ」が感情労働に圧をかけるほど、演者の感情が削られ、「働く楽しさ」という燃料が尽きる。共同体を売る仕事が、共同体の担い手を消耗させる——ここに、この産業の一番きしむ関節がある。
絆が痩せるほど伸びる装置
最後に、個別の法則を一つに束ねる。ここで効くのが、社会学の最も古い問いだ。19世紀末、エミール・デュルケームは、人を社会につなぎとめる「統合」が弱まると、個人が生きる足場を失うと論じた。人間は、社会の網の目に編み込まれていないと、うまく立てない生き物だ、と。
そして2000年前後、政治学者ロバート・パットナムは『孤独なボウリング』で、20世紀後半のアメリカで人々のつながり——ソーシャル・キャピタル(社会関係資本)——が痩せ細ったことを、膨大なデータで示した。ボウリングの総人口は増えたのに、リーグを組んで一緒に投げる人が減り、みな一人で投げるようになった。地域組織も、友人宅への訪問も、軒並み減っていた。
この2つを重ねると、最終的な一般法則が出る。人間は社会の絆によって支えられており、その絆は近代を通じて一貫して痩せ続けてきた。ダンバー数の共同体が消え(法則1)、ゲマインシャフトが解体され(法則2)、サードプレイスが潰され(法則3)、残ったのは、一人でボウリングを投げる社会だ。
コンカフェは、この長い喪失の最先端に立つ産業だ。承認(法則1)、居場所(法則2・3)、親密さ(法則4)、絆を結ぶ贈与(法則5)——人類が共同体から無料で受け取っていたものを、感情労働(法則6)によって供給し、市場価格をつけて売っている。だから予測が立つ。社会の絆が痩せるほど、この装置の需要は増える。不況で消えるどころか、孤独が深まる局面でこそ伸びる。コンカフェが四半世紀かけて拡大し、推し活経済へと膨らんだ背景には、この人類史的な下り坂がある。前回、日本社会の無縁化と重ねて歴史を見たが、それは日本の特殊事情ではなく、近代社会に共通する坂道の、日本での現れだった。
私たちが置いてきたものの値段
コンカフェを「色恋商法」と切り捨てるのも、「まがいもの」と裁くのも、構造を見ていない。ここまで見たとおり、あれは人類が数万年かけて共同体から得ていた機能を、それが失われた社会で、市場が肩代わりしている装置だ。良し悪しの前に、まずそう読むほうが、この現象の大きさと粘り強さを説明できる。
誤解のないように言えば、これは「市場化は悪だ」という話ではない。市場化には功もある。かつて共同体に生まれつけた者しか得られなかった居場所を、誰でも金を払えば手に入れられるようにした——これはアクセスの民主化だと言ってもいい。共同体は優しい反面、閉鎖的で、はみ出す者には冷たい。市場化された居場所は、その入りにくさを金で開いた。ダンバー数の共同体に生まれつけなかった人にとって、値札のついた承認は、承認がまったくないよりはるかにましだ。
コンカフェが増えていくのを、風紀の乱れとして眺めることもできる。だが見方を変えれば、それは私たちの社会がどれだけ絆を失ったかを映す、正確な鏡だ。売れているのは飲み物ではない。人類がかつて無料で持っていて、近代のどこかで置いてきた「居場所」に、いま値札がついている。その値段を高いと感じるか、安いと感じるかは、あなたが普段どれだけ孤独か、という問いと、たぶん同じものだ。
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本稿は、ダンバー数(R・ダンバー)、ゲマインシャフト/ゲゼルシャフト(F・テンニース)、サードプレイス(R・オルデンバーグ)、パラソーシャル関係(D・ホートン/R・ウォール, 1956)、贈与論(M・モース)、感情労働(A・ホックシールド)、社会的統合(E・デュルケーム)、社会関係資本(R・パットナム)など、社会学・人類学の確立した概念を用いた構造的解釈である。各概念のコンカフェへの適用は筆者による解釈であり、定量的に証明された因果ではない。市場規模等の数値の出典は第1回に記載。個別の店舗・個人を評価する意図はない。
この連載は、コンカフェを含む店舗を自社で運営する立場から書いています。データローは、データ活用のコンサルティングと店舗運営の両方を行っています。ファンビジネスの構造分析やデータ活用のご相談は、お問い合わせから。